ながくて旅のバイブル
小牧・長久手の戦い 史跡めぐり

長久手合戦図屏風 徳川美術館所蔵(推定作成年数 19世紀初期)
緑豊かな丘陵が連なる長久手の地。この静かな土地が、かつて天下の行方を決する激戦地となったことを、今を生きる私たちはどれほど想像できるでしょうか。
織田信長の死後、天下統一を目指した羽柴秀吉と徳川家康が天下の覇権を賭けて激突した小牧・長久手の戦い。1584年(天正12年)、この地で繰り広げられた壮絶な戦いの跡をたどりながら、歴史の転換点となった合戦の舞台を巡ります。
第1章 乱世に響く野望の鼓動
秀吉と家康の対決
1584年(天正12年)、長久手の地で繰り広げられた激しい戦い―。羽柴秀吉の8万の大軍と、徳川家康・織田信雄連合軍1万5千が激突したこの合戦は、単なる領地争いを超えた、まさに天下の行方を決める決戦でした。
揺れる戦国の覇権~秀吉と家康の対決へ
時は戦国時代。天下統一を目指して各地の大名が争い合う中、最も天下に近いと言われた織田信長が、1582年(天正10年)、明智光秀の謀反により倒れます。この本能寺の変により、天下の情勢は一変しました。
信長の死後、家臣の羽柴秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、清洲会議を経て次第に実権を掌握していきます。一方、信長の盟友であった徳川家康は、甲斐・信濃での支配権を固め、五カ国の太守として着々と力をつけていました。
天正11年、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いに勝利した秀吉は、独自の基盤を築き、東国にも勢力を伸ばしていきます。これに対し、織田信雄は自らの立場が危うくなることを懸念。父信長の同盟者である家康に助力を求めました。
家康は、単に信雄の要請に応じただけではありませんでした。戦いの前から、三河一向一揆から禁止していた一向宗を許可し、徳政令を出すなど、秀吉と対峙する準備を進めていたのです。さらに、家康は部下への書状で「上洛」(京都へ上って実権を握ること)に言及しており、天下人としての野望を秘めていたことがうかがえます。
こうして、総勢12万人が投入される大規模な戦いの幕が切って落とされたのです。歴史学者の指摘によれば、この戦いには次の特徴があります。
- 両軍の指導者が天下人としての実権を目指していた
- 直接関係のない大名も、どちらかの陣営に属することを強いられた
- 主戦場だけでなく、全国規模で戦いが展開された
- 戦後も国家秩序の確立のための戦いが続いた
それまでの領地争いとは一線を画す、まさに「天下分け目の戦い」としての性格を示しています。
各地で36回もの戦いが繰り広げられ、9カ月にも及んだ小牧・長久手の戦い。江戸時代の思想家・頼山陽は「家康の天下取りは、大坂でもなく関ヶ原でもなく、小牧にあり」と評しています。この戦いは、後の徳川政権樹立の重要な足がかりとなったのです。
では、この歴史的な戦いの足跡をたどりながら、現在に残る史跡を訪ねていきましょう。
本能寺の変
織田信長、明智光秀の謀反により倒れる
山崎の戦い
羽柴秀吉が明智光秀を破る
賤ヶ岳の戦い
秀吉が勝利し、独自の基盤を確立
家康、三河で一向宗を許可
登場する主な武将
徳川家康
とくがわ いえやす
信長の盟友、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5カ国太守
織田信雄
おだ のぶかつ
信長の次男、家康と同盟
羽柴秀吉
はしば ひでよし
信長の家臣、山崎の戦いで光秀を破る
徳川家康軍(朱色)
羽柴秀吉軍(空色)
第2章 いざ開戦!
小牧山に翻る軍旗
裏切りが呼ぶ戦乱 ~犬山城奪取の衝撃~
戦いの口火を切ったのは、大垣城主・池田勝入でした。勝入は織田信長の乳兄弟であり、信雄からすれば父の親友。一方で、秀吉の養子・秀次に娘を嫁がせており、双方から味方になるよう求められていました。
熟慮の末、秀吉方につくことを決意した勝入は、その証として1584年(天正12年)3月13日、織田・徳川方の犬山城(城主は信雄の家臣・中川定成)を奪取します。この知らせを受けた家康は、「勝入めが。もしや秀吉の軍勢が来るのを待っているのかもしれぬ。…われらが勝つには。そうじゃ、あそこだ。あの小牧山をとれば、このいくさはわが方の勝ちだ」と判断。
3月15日、家康は信雄とともに2万の兵を率いて小牧山に向かいました。秀吉方の森長可は小牧山城の奪取を試みますが、犬山市羽黒の八幡林での戦いで惨敗。小牧山は家康の手に落ちることとなります。
3月27日、秀吉は6万の大軍を率いて犬山城に入城。小牧山に布陣する家康・信雄軍1万5千との対峙が始まりました。
池田勝入、犬山城を奪取
家康・信雄軍2万、小牧山へ向かう
秀吉6万の大軍で犬山城入城
登場する主な武将
池田勝入
いけだ しょうにゅう
岡崎侵攻作戦の立案者
中川定成
なかがわ さだなり
犬山城主、信雄の家臣
徳川家康
とくがわ いえやす
2万の軍を率いて小牧山へ
森長可
もり ながよし
秀吉方の武将、小牧山城奪取に失敗
羽柴秀吉
はしば ひでよし
6万の大軍を率いる
史跡探訪
長久手城址(市指定史跡)
長久手市街の中心部に位置する長久手城址。この城は、のちの岩崎城の戦いで戦死することになる加藤忠景の居城でした。
■見どころ
長久手城は、血ノ池(前山池)を東の防御ラインとして築かれた平城でした。城の構造は、中央に南北約35mの空堀を挟んで東城と西城の連郭構造を持ち、各郭は約1,200㎡の方形でした。外周の堀や土塁を含めると総面積は約6,000㎡に及んだとされています。
現在は城の遺構はほとんど残っていませんが、観音堂が建立され、その脇に城址碑が建てられています。また、文化6年(1809年)建立の「加藤太郎右衛門忠景宅趾」の碑も残されています。城跡周辺は「城屋敷」という地名として当時の面影を今に伝えており、白い漆喰塀(しっくいべい)と石組で囲まれた屋敷が建ち並び、独特の歴史的景観を形成しています。
アクセス
愛知県長久手市城屋敷2408番地
リニモ(東部丘陵線)杁ヶ池公園駅から徒歩圏内
第3章
闇に潜む大軍、運命の夜襲
策謀渦巻く岡崎侵攻作戦
1584年(天正12年)4月4日、大垣城主・池田勝入は秀吉に大胆な作戦を提案します。「家康配下のほとんどの部隊が小牧山にいるため、家康の拠点のひとつ岡崎は兵が手薄である。この機会に岡崎を突けば、小牧の兵は驚いて、たちまちくずれるであろう」というものでした。
当初この案に難色を示していた秀吉でしたが、勝入の熱心な進言に押され、ついに承諾。4月6日、岡崎侵攻軍が編成されました。
- 第1隊:池田勝入、池田之助、池田照政(6,000人)
- 第2隊:森長可(3,000人)
- 第3隊:堀秀政(3,000人)
- 第4隊:三好信吉(8,000人)
総大将の三好信吉は秀吉の甥にあたる17歳の若き武将。総勢2万の大軍は、夜陰に紛れて犬山を出発しました。しかし秀吉は勝入に「岡崎近くへ進んでも、軽々しく敵城を攻めてはならぬぞ。途中の小城にも目をつけるな。おまえたちの目的は、岡崎城やその付近を脅して、家康の肝を冷やすことなのだ」と強く戒めていました。
岩崎城落城と白山林に散る若き将の夢
4月9日早朝、岡崎へ向かう途中、侵攻軍は岩崎城のそばを通りかかります。勝入は秀吉の戒めを忘れ、城からの挑発に応じて攻撃を仕掛け、岩崎城を落としてしまいます。その後、勝入は岩崎城北側の六坊山で首実検を始め、進軍が遅れることに。
この時すでに、家康は篠木(しのぎ)の農民からの密告で侵攻軍の動きを察知。4,500人の先発隊と9,500人の本隊を編成して追撃に向かっていました。
現在の尾張旭市にあった白山林(はくさんばやし)で朝食をとっていた三好信吉の後衛部隊は、突如として襲来した家康軍の先発隊に襲撃されます。不意を突かれた三好軍は総崩れとなり、信吉本人も討死寸前の危機に陥りました。
この窮地で、信吉の命を救ったのが木下勘解由と木下周防守の兄弟でした。
池田勝入、岡崎侵攻作戦を提案
岡崎侵攻軍2万人編成
岩崎城攻略、白山林の戦い
登場する主な武将
池田勝入
いけだ しょうにゅう
岡崎侵攻作戦の立案者
三好信吉(17歳)
みよし のぶよし
秀吉の甥、総大
池田之助
いけだ ゆきすけ
第1隊指揮官
池田照政
いけだ てるまさ
勝入の次男
森長可
もり ながよし
第2隊指揮官
堀秀政
ほり ひでまさ
第3隊指揮官
木下勘解由
きのした かげゆとしただ
三好信吉の命を救った武将
木下周防守
きのした すおうのもり
勘解由の兄、共に戦死
史跡探訪
木下勘解由塚(市指定史跡)・木下周防守戦死の地
■見どころ
木下兄弟の忠義を伝える石碑が建立されています。
勘解由は自分の馬を信吉に差し出して逃がし、兄の周防守とともに追っ手との戦いを選びました。「ここが、わが討死の場所じゃ」と自らの指物(さしもの)を地面に突き立て、追撃してきた家康軍に立ち向かった兄弟の最期の地には、今も石碑が残されています。
白山林の戦いで三好軍は数百の戦死者を出して崩壊。岡崎侵攻作戦は、その端緒において頓挫することとなりました。木下兄弟の献身的な忠義がなければ、若き総大将・三好信吉の命も失われていたことでしょう。
アクセス
<木下勘解由塚>
愛知県長久手市荒田9-1
<木下周防守戦死の地>
木下勘解由塚より東へ50mの場所
西鴨田橋北交差点西北100mに位置しています
第4章 桧ヶ根の奇襲!
堀秀政の大采配
名将・堀秀政、魅せる戦術の冴え
三好信吉隊の壊滅を知った堀秀政は、すぐさま対応を開始します。秀吉軍の中でも「いくさめつけ(軍監)」を任されるほどの戦上手であった秀政は、香流川(かなれがわ)を前にした桧ヶ根の中腹と、桧ヶ根の西に連なる高ヶ根の東のふもとから中腹にかけての高地一帯に、3,000人の兵を巧みに配置しました。
轟く銃声、血に染まる香流川
追撃してきた家康軍の先発隊は、大須賀康高、榊原康政を先頭に、水野勝成、岡部長盛、本多康重、丹羽氏次らが続きます。堀秀政は敵をぐっと引き寄せたところで、鉄砲組による一斉射撃を命じました。轟音とともに放たれた弾丸の雨は、家康軍に大打撃を与えます。
「梅の花」の旗印を中心に、堀秀政軍は桧ヶ根を駆け下り、家康軍に斬り込みます。香流川は戦いで流れた血に染まったといいます。大須賀、岡部の隊は猪子石(いのこいし)方面へ、水野、丹羽、榊原の隊は岩作(やざこ)の方へと退却を余儀なくされました。
堀秀政、香流川を前に桧ヶ根と高ヶ根に3,000人を配置
家康軍先発隊、桧ヶ根に到達
堀秀政軍、鉄砲組による一斉射撃を実施
家康軍先発隊、約500人の戦死者を出して敗退
登場する主な武将
堀秀政
ほり ひでまさ
秀吉軍の名将、いくさめつけ(軍監)
大須賀康高
おおすが やすたか
家康軍先発隊の武将
榊原康政
さかきばら やすまさ
家康軍先発隊の武将
水野勝成
みずの かつなり
家康軍の武将
岡部長盛
おかべ ながもり
家康軍の武将
本多康重
ほんだ やすしげ
家康軍の武将
丹羽氏次
にわ うじつぐ
家康軍の武将
史跡探訪
堀久太郎秀政本陣地(市指定史跡)
■見どころ
堀秀政が陣を構えた桧ヶ根の地形を今に伝えています。当時の戦場の様子を偲ぶことができます。
堀秀政は戦いの後、敵の追撃部隊を二手に分け、自らは岩作方面への追撃を指揮しました。この判断が、次に起こる家康本隊との対峙の布石となります。
桧ヶ根の戦いで、家康軍先発隊は約500人の戦死者と数知れない負傷者を出して敗退。しかし、この戦いはまだ序章に過ぎませんでした。というのも、この時すでに家康本隊が色金山(いろがねやま)に到着していたからです。
アクセス
愛知県長久手市坊の後113、桧ケ根(ひのきがね)公園内
長久手市文化の家周辺に位置し、桧ケ根公園内にあります
第5章 黄金の馬印!
家康、決断の時
色金山に鳴り響く運命の軍議
4月9日午前5時頃、徳川家康は織田信雄軍と合わせた9,500人の兵を率いて、色金山に到着します。大森、印場を通り、稲葉付近で矢田川を渡り、本地の南から熊張権道寺を過ぎてきた道のりでした。
色金山の頂上にある大石に腰を下ろした家康は、ここで重要な軍議を開きます。白山林での勝利の報が入る一方で、桧ヶ根での敗走する味方からの救援要請も届きました。家康はこの危機的状況の中で、次の一手を慎重に検討することになります。
朝日に輝く勝利の象徴
家康は前衛の井伊直政、奥平信昌両軍に東浦の守備を命じ、自身は3,000人の兵を率いて富士ヶ根に上りました。ここで家康は、堀秀政軍と池田勝入・森長可軍が合流することを何としても防ぐ必要があると判断します。
「旗印を高く掲げよ。馬印をあげよ」
朝日に輝く金の扇の馬印と葵(あおい)の葉の旗印が富士ヶ根の頂に掲げられ、山を揺るがす銃声とときの声が響き渡りました。この光景を目にした堀秀政は、疲弊した自軍の状況を考慮して戦線を離脱。岩作の北方へと撤退していきます。
家康、色金山到着、大石で軍議を開催
家康、井伊直政・奥平信昌両軍に東浦の守備を命令
家康3,000人を率いて富士ヶ根へ移動
堀秀政、戦線離脱を決断
主な登場人物
徳川家康
とくがわ いえやす
色金山で軍議、富士ヶ根に陣を構える
井伊直政
いい なおまさ
東浦の守備を命じられる
奥平信昌
おくだいら のぶまさ
東浦の守備を命じられる
堀秀政
ほり ひでまさ
家康の戦略により撤退を決意
史跡探訪
色金山(国指定史跡)
■見どころ
家康が軍議を行った場所を今に伝える史跡公園です。
床机石(しょうぎいし)広場:家康が軍議の際に腰掛けたとされる石があり、国の史跡に指定されています。
馬泉水広場:家康軍が軍馬に水を飲ませた泉があったとされる親水広場。
展望テラス:戦国期の砦を思わせる木製の展望台から、かつての激戦地であった仏ケ根方面を望むことができます。
アクセス
愛知県長久手市岩作色金37番地1
- 地下鉄東山線「藤が丘」から名鉄バス「岩作」下車、北へ徒歩5分
- 市営Nーバス「安昌寺」下車、徒歩10分
- 駐車場:30台完備
御旗山(国指定史跡)
■見どころ
御旗山は、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて重要な役割を果たした場所です。この戦いで、徳川家康が秀吉軍の様子をうかがいながら進軍し、山頂に金扇の馬印を立てたとされています。
家康は最初に色金山に陣を構えましたが、戦況を見極めた後、御旗山(当時は富士ヶ根と呼ばれていた)に陣を移しました。この移動が功を奏し、秀吉軍の堀秀政は戦況不利と判断して撤退しました。これにより、家康は秀吉軍の分断に成功し、長久手決戦への道を開きました。
アクセス
愛知県長久手市富士浦602番地
- 東部丘陵線(リニモ)「はなみずき通駅」から徒歩約10分
- 長久手古戦場駅から徒歩約15分
第6章 いざ、最期の突撃へ!
「鬼武蔵」森長可、渾身の一撃
4月9日午前10時頃、戦いは最終局面を迎えます。長湫(ながくて)の富士ヶ根から仏ヶ根、前山に陣を構えた家康軍に対し、池田勝入は自身の長男・之助を右翼に、娘婿の森長可を左翼の喜婦嶽方面に配置しました。
森長可は喜婦嶽(きぶたけ)から、家康の本陣を目掛けて突進を開始します。紺糸威(こんいとおどし)の黒皮(くろかわ)の鎧、白地金欄(きんらん)の陣羽織(じんばおり)を身につけ、鹿の角の前立のかぶとをかぶった長可は、「羽黒の戦いの恥をそそぐのは、今であるぞ。ただ家康の首だけねらえ」と叫びながら突撃しました。
散り行く武将たち、父子の絆
しかし、家康の本陣を守る精鋭たちとの激しい戦いの最中、一発の銃弾が長可の額を貫きます。討ち取ったのは井伊直政の配下・梶原与兵衛とも水野勝成の配下・杉山孫六ともいわれています。27歳の若き武将の最期でした。
一方の池田勝入は、仏ヶ根南方での激戦の中、徳川家康の旗本・永井直勝に討たれました。49歳でした。勝入の最期を知った長男・之助は「父上の遺言ももっともだが、父を討たれて、そのかたきも討たず、この場をさることなどとは武士として恥ずべきこと」と、敵陣に突っ込んでいき、安藤直次に討たれます。26歳でした。
約9カ月にわたった小牧・長久 手の戦いは、ここで幕を閉じました。
富士ヶ根・仏ヶ根での決戦開始
長久手合戦終結
登場する主な武将
森長可
もり ながよし
27歳、喜婦嶽から突撃し戦死
池田勝入
いけだ しょうにゅう
49歳、永井直勝に討たれる
池田之助
いけだ ゆきすけ
26歳、安藤直次に討たれる
池田照政(輝政)
いけだ てるまさ
叔父・輝重の諫言で撤退、後に姫路藩主
梶原与兵衛
かじわら よへい
井伊直政の配下、森長可討ち取りの一説
杉山孫六
すぎやま まごろく
水野勝成の配下、森長可討ち取りの一説
永井直勝
ながい なおまさ
徳川家康の旗本、池田勝入を討つ
安藤直次
あんどう なおつぐ
池田之助を討つ
史跡探訪
武蔵塚(国指定史跡)
■見どころ
森長可(通称・鬼武蔵)の戦死地を示す塚。長可の首は家臣たちによって密かに岐阜金山城へ運ばれたといいます。
勝入塚(国指定史跡)
■見どころ
池田勝入の最期の地を示す塚。父子の死を悼む石碑が建立されています。
池田勝入は美濃大垣城主として、家康の本拠地・岡崎攻めを秀吉に進言し自ら軍を率いましたが、岩崎城攻めに手間取り、この地で家康本隊と交戦して戦死しました
庄九郎塚(国指定史跡)
■見どころ
池田之助(元助・庄九郎)の戦死地。父・勝入の塚を仰ぎ見るように建っています。
両軍合わせて2,500~3,000人の戦死者を出したこの戦いで、次男の池田照政(輝政)だけは叔父・輝重の諫言により戦場を離れました。後に照政は、秀吉の媒酌で家康の娘・督姫(とくひめ)と結婚し、関ヶ原の戦いでは東軍(家康方)として参戦。「姫路宰相百万石」と呼ばれるまでに池田家を繁栄させることになります。
アクセス
愛知県長久手市武蔵塚204(古戦場公園内)
- 「長久手古戦場駅」から徒歩5分
第7章
時を超えて語りかける古戦場
この激しい戦いから400年以上が経った今も、長久手の地には当時を偲ばせる史跡が数多く残されています。これまでご紹介した木下勘解由塚、武蔵塚、勝入塚、御旗山などに加え、もう一つ重要な史跡をご紹介します。
史跡探訪
首塚(国指定史跡)
■見どころ
天正12年(1584年)の長久手の戦いで戦死した2,500~3,000人の将兵を供養するために作られた塚です。家康軍が戦場処理を行わずに撤退したため、戦死者が野晒しになっていたことを嘆いた安昌寺の雲山和尚が、村人たちと協力して敵味方の区別なく遺体を集めて供養しました。国の史跡に指定されており、戦いの悲惨さを今に伝える重要な遺構となっています。当時の戦いの規模の大きさを物語る史跡です。
アクセス
愛知県長久手市岩作元門41(長久手市役所の東200m)
長久手市役所の東側に位置し、県道沿いの北側にあります。
終わりに
小牧・長久手の戦いは、単なる領地争いを超えた「天下分け目の戦い」でした。そしてその結果は、その後の日本の歴史を大きく左右することになります。これまでご紹介してきた長久手の史跡群は、その重要な歴史の転換点を私たちに伝え続けているのです。
長久手を訪れた際には、ぜひゆっくりと時間をとって各史跡を巡り、当時の武将たちの思いや、戦いに込められた歴史的な意味に思いを馳せていただければと思います。それぞれの場所に残る足跡は、400年以上の時を超えて、歴史の重みを私たちに語りかけているのです。
古戦場の息吹を感じて~史跡めぐり
これらの史跡は、いずれも徒歩で巡ることができ、古戦場の地形や当時の戦いの様子を実感することができます。特に御旗山(国指定史跡)からは、戦場となった一帯を見渡すことができ、家康が布陣を考えた際の視点を追体験することができます。
各史跡には説明板が設置されており、当時の様子を解説しています。また、長久手市郷土資料室では、合戦に関する資料や出土品を見学することができます。
小牧・長久手の戦いは、単なる領地争いを超えた「天下分け目の戦い」でした。そしてその結果は、その後の日本の歴史を大きく左右することになります。これらの史跡は、その重要な歴史の転換点を私たちに伝え続けているのです。
長久手を訪れた際には、ぜひゆっくりと時間をとって各史跡を巡り、当時の武将たちの思いや、戦いに込められた歴史的な意味に思いを馳せていただければと思います。
※見学時の注意点
- 史跡は住宅地の中にあるものもあります。周辺住民の方々の生活に配慮をお願いします。
- 写真撮影は可能ですが、他の見学者の妨げにならないようご注意ください。
- 各史跡の駐車場は限られています。公共交通機関のご利用をお勧めします。